フィリピンの歴史

ノブレス オブリージュ (noblesse oblige)特権的な地位にあるものは、相応の義務(経済的な支出、役務の提供、戦争への志願など)を自発的に果たすことが慣習的に求められるという意味だが、直訳すると「高貴さは(義務を)強制する」となる。

この西洋生まれの考え方と異語同音ともみられる日本の武士道、支配階級である武士に文武両道の鍛錬と徹底責任を取るべきことが求められたことに始まる。この「文武両道の鍛錬を欠かさず、自分の命を以って徹底責任をとる」という武士の考え方を示し、広義の武士道は、この考え方を常識とする日本独自の思想を示す。

こう考えると日本の常識、西洋の常識も先進国としての常識は同じと考えられる。

ではフィリピンでは? フィリピン人の常識の根源とは?日本の常識はフィリピンの非常識 これは日本人の大多数の意見だが。歴史から見ると

1543年、ミゲル・ロペス・デ・レガスピの遠征隊、メキシコからセブ島に到着し占領、スペイン植民地確立。

1559年、フェリペ2世の命により、ミゲル・ロペス・デ・レガスピを司令官とする遠征隊がメキシコよりフィリピンに向けて出発。

1565年、レガスピ遠征隊、パナイ島を征服。

1569年、レガスピ隊、ムスリム王ラジャ・ソリマンを退けマニラを占領。 レガスピ初代総督に。

1570年、スペイン軍マニラ占領。初代総督ミゲル・ロペス・デ・レガスピ、マニラを首都に定める。

1610年、サント・トマス大学開校。

同年、マニラで日本人が追放命令に抗議して反乱。

1621年、マニラの日本人人口、3000人に達する(鎖国後、減少)。

1745年、イギリス軍マニラ占領。

同年、最後の中国人(華僑)反乱。

1888年、ホセ・リサール、国外退去の勧告を受け、出国、2月~4月を日本で過ごし、6月ロンドンへ着く。

1892年、ホセ・リサール帰国。スペインからの独立を得るための、武装反乱に備えることを訴え、革命組織カティプナン(Katipunan)を結成します。 カティプナン(katipunan)の語源はティポン(tipon)で、土着のタガログ語に由来します。意味は「社会」または「収縮」。 公式の革命の意味は、人民の子らの最も尊敬すべき至高の協会(Kataas-taasang、Kagalang-galangang Katipunan ng mga Anak ng Bayan)として翻訳され、その頭文字からKKKと呼ばれます。

1896年、カティプーナンの存在が発覚。

同年、カティプーナン機関誌「カラヤーン(自由)」創刊号発行。地方組織拡大の契機に。

同年、日本海軍練習艦金剛マニラに入港、カティプーナン代表が支援要請。

同年、ホセ・リサールの流刑生活が終わり、スペインに到着。カティプナンの独立闘争が開始され逮捕。

同年、アンドレス・ボニファシオ、武装蜂起(バリンタワクの叫び)。

同年、エミリオ・アギナルド、カビーテで武装蜂起。

同年、ホセ・リサール、ルネタ(Luneta)で銃殺。

1897年、米西戦争勃発、米軍マニラ占領。

こうした歴史を振り返るとホ・セリサールがフリーメイソンに入り結社と言う組織を理解して、フィリピンに戻り結社KKKを作った事などを考えると、フィリピンは戦前には日本と同じ常識があったと考えられる。またマルコス時代までは英語を重んじ、メデアの40%は教育感覚のある物というルールが存在する。しかしアキノ時代からこの32年は世界インデックスが示すように、アジア最高の教育レベルからバングラデッシュまで落ち込んでいる。即ちこの32年で、日本の常識はフィリピンの非常識になった事は明白で、人口が倍増しているので、残念だが今のフィリピン人の40歳以下は教育即ちものを読んだことが無い非常識人化していることになる。

フィリピンに住む皆さんもうご存知だと思いますが、フィリピン建国の師 ホセ・リサールは クリスチャンでは無かったのでは無いか? 更に彼は日本と組んでフィリピン独立を考えていたのではないか? その情報が筒抜けで彼が銃殺され、アメリカが参戦したのでは? クリスチャンでは無かったとはドイツ滞在中の1887年2月21日にベルリンで小説『ノリ・メ・タンヘレ(Noli Me Tangere)』[ラテン語で『我に触れるな』の意]を出版した。この本はバチカンの世界制覇の夢をスペインに戦費を払い実現させている血なまぐさく醜いさを書いた暴露本でもある。フィリピン帰国後暫くは出身地のカランバで医者として従事していたが、この本が国内で出版されフィリピンのスペイン植民地支配層からの圧力で、身の危険を感じたリサールは27歳にして再び留学へと旅立った。しかしここからがなぜ日本だったのか?。1888年2月28日横浜港に到着。そして同年4月13日アメリカへの船に乗るまで、短期間におせいさん こと臼井勢似子さん 維新で没落したとはいえ、江戸旗本の武家育ちで、つつましく、編み物と絵画を得意とし、英語とフランス語を学んでいた。彼女と恋に落ちた。最後に日本語の研究家だった彼はこうした手紙を彼女に残している。 

前文略 

どんな女性も、あなたのように私を愛してはくれなかった。

どの女性も、あなたのように献身的ではなかった。・・・

もうやめよう。みんなおしまいになってしまった。 さようなら・・ さようなら・・

私は即座にフランスの女スパイのマタ・ハリを考えてしまった。彼女はその後イギリス人と結婚している。偶然かもしれないが、偶然は続く。4月14日サンフランシスコ行きの船で、後に衆議院議員となる自由民権運動の壮士、末広鉄腸と懇意になった。当初の鉄腸の目的は訪米だったが、リサールと意気投合したために予定を変更して4月28日のサンフランシスコ到着後も行動を共にし、5月16日にリサールと共にイギリスのリバプールに到着した後、ロンドンにて別れている。1896年ホセ・リサールが銃殺刑になる年に日本海軍練習艦金剛マニラに入港、カティプーナン代表が支援要請。 偶然とは奇なるもの

いやフィリピンに於ける華僑(というか中国商人)の力には歴史的に見てかなわない。16世紀以前も土着民のモロ人(マレー系)とかなりの交易をおこない。スペイン人が植民地化しても、その要塞イントロムロスの川を渡った隣に中華街ビノンドを構築し、自警団を作りスペイン植民地内で戦って、しかも商売していたのだから。。フィリピンは日本人や白人が減っただけで、キリスト教化したフィリピーノ(元モロ人)と中華系。そしてモロ人(土着の原点を守る)が戦後の今の社会でも変わらない。その上キリスト教化された中華系人の高度教育から政治、法律、経済を握るようになって来たことは、他国の侵入を完璧に阻害している。しかしこの中華人、普段はキリストの深い信者と言いながら、春節にはお祝いをする。スペイン人が作ったキリスト教マーケットを逃さない商人根性。

日本軍はマニラ侵攻で無損傷で落城させたが、アメリカ軍は殆どを壊してしまい、落城。日本には例のホセ・リサールからのラ・リガ・フィリピナの同盟精神が残っていたのかも知れない。

フィリピンにお住まいの方でも、あまりフィリピンの歴史を知らずにお住まいの方も多いようですので、昨日の投稿から歴史を中心とした話題でお届けしております。

昨年私も参加させてもらったミンダナオ全域及びセブ島南半分のダトウ、スルタン(dato(マレーシアの称号の)〔州の世襲制のスルタンが与える貴族に相当する称号。夫人はdatinと呼ばれる。)の集会に参加、ダトウにしてもらったが、元々モロ(Moro) はフィリピンのスールー・パラワン・ミンダナオなどの島に分布するイスラム教徒の総称でおよそ250万人いるといわれ、実際には言語・文化を異にする複数集団を含みますがスペイン人により一括してモロ人(ムーア人)と呼ばれるようになり、スペイン人来航以前はフィリピン全域を支配していました。即ちフィリピン全土はイスラム教徒だった訳です。これはマラッカ王国からの影響が非常に大きかったと思われます。

1578年、スペインによるフィリピンの植民地化が始まり、モロ(moro)の抵抗戦争(モロ戦争)が始まります。ルソン、ビサヤ地方は植民地化されましたが、ミンダナオは実効的支配はされませんでした。それにより、キリスト教化されたフィリピノとイスラム教徒のモロ諸族の戦争が起きる原因となっています。

1903年にミンダナオの人口の76%はイスラム系住民(モロ)でしたが、その後減少しましたが、現在連携が強化されてきました。

故にミンダナオにはフェデラリズム(連邦制)擁立論が盛んで ドウテルテ大統領でさえ連邦制で支持を受けて当選、モロは連邦制を押し、連邦制が擁立できなければミンダナオ独立すら視野に入れています。元々フィリピンはモロだったのですから、そう考えるのは必然でしょう。

以下は昨年のミンダナオ、ディポログ Dipologでの大会の様子。勿論宗主国であるサウジアラビアからも来賓出席。写真下はホテル前の護衛集団。大会のあった場所には1個小隊が警備に。ミンダナオに於ける外国人の安全度は東京を1と置くとマニラは200倍、ミンダナオは1000倍以上となります(笑)。このディポログでも一昨年ここで評判の店を開くドイツ人が誘拐殺害されているし、私の食事仲間のセブやマカチィにクラウンリージェンシーホテルなどを経営する、セブの大富豪キング氏が、ダバオにある自社ビル内で3年前に射殺されている。

FBフレンドのShinji Okumuraさんからのご依頼で、私の現在の大統領とマルコス家との関係についての私の見解を聞かせてほしいとの事で、ここに投稿します。 

弁護士の父の2度目の母親から生まれ、戦争中は父の実家のレイテ。タクロバンに身を寄せ、戦後1951年マニラに戻り下院議員会での仕事から1952年マルコスに出会い、1954年に結婚したイメルダ夫人、一方マルコスも父親は弁護士にしてイロコス・ノルテ州選出国会議員、母親は教師だった。4人兄弟の2番目で1937年、フィリピン大学法学部の学生だったとき、父親と政治的に対立していた下院議員暗殺事件の容疑で起訴され、同年11月に有罪判決を受けた。マニュエル・ケソン大統領により恩赦を受けるが、これを拒否し刑務所にて裁判の準備と司法試験の勉強をして過ごした(後に司法試験はトップで合格する)。翌年、最高裁判所判決にて無罪となる。そしてフィリピン独立後の1946年から1947年まで、マヌエル・ロハス大統領の補佐官を務め、1949年には下院議員に当選、その際の選挙スローガンは「投票日に、あなたの下院議員として私を選出してください。そうすれば私は20年で大統領となります」というものだった。1959年には上院議員に鞍替えし、1962年から1965年までは上院議長を務めた。こうした凄腕議員を支えたのがイメルダ夫人であった。そして1986年にエドサ革命で失脚したが、ドゥテルテ ダバオ市長が誕生したのが1988年である。のでこの二人の関係を裏付けるものは特には無い。では何処でその息子ボンボンマルコスを副大統領に任命したのか? 

私の推測だが、チャピー シンソン マルコスの右腕で粛清の指揮者。マルコス失脚後のイロコスノーテを守って来た男。ボクサーパッキャオの産みの親でパッキャオの財産管理人。

この人はその粛清の為に多くの敵を持ち、常時20名以上のガードを引き連れて動き、家には虎を放しがいにしている。 この御仁が裏で動いていると見られる。優しい顔立ちだが恐ろしい御仁。

今ドゥテルテ大統領の評判は極めて悪化している。4万人もの人が裁判所の命令のないまま、片手に小さい麻薬2袋と銃を持たされ、同じパターンで麻薬撲滅戦争という名で銃殺が行われている、ここまで来ると知識層の親戚その他まで犠牲者があるので、その残虐さ、卑劣さが既にそうした層の人の中で語られている。今私も良くその話は聞かされる。その上、警察の捜査には厳重な確信をと言う中、大統領本人が 馬鹿者には死を とはっきり言っている。

マルコス政権下における最初の10年は良かったものの、残りの10年におけるマルコスの粛清は極めて酷かった為、多くのフィリピン人がアメリカに避難(亡命)して外貨を持ち出した為に、当時1ドル2ペソの交換レートが一気に1ドル20ペソまで暴落した。それで今フィリピンでは1ドル51ペソが、また暴落するのではと、民衆の中で騒がれている。歴史は繰り返される。 今またフィリピンでは汚職が蔓延し始めた。今 金掴んで高飛び という風潮なのだろう。すると大統領も、こうした者への粛清が強まる。そして歴史は繰り返される。

今日はオールセイントデイ。その名の通り、キリスト教徒のお彼岸。御先祖様が戻ってくる日。この日は多くの人がお墓に集まり、一夜を墓地で過ごす。日本人がハロウィンと言って意味が解っているか知らないが、騒いでいるのが面白い。

昨夜一日早いが夜中に付き合いもあり、BGC の隣にあるヘリテージ墓地(写真上)に行って来た、あいにくの雨で長居はしなかったが、ここはこの10年で一躍に高級墓地として浮上したタギグ市環状5号線沿いに広大な土地で、中国、韓国は広大なお寺を有している。、10年前 ダバオ国際大学の網代住職とここにお寺を作りたいと言っていたが、結局日本政府は動かなかった。しかし富裕層は写真のようなエアコン付きの家を建ててこの日の為に準備し。別棟テントで豪華仕出しで食事だが、中にはこれ見よがしに写真のような豪華宮殿を建てる人もいる。

まあそれに対して マニラの政府の墓地。マニラノース墓地とサウス墓地。サウス墓地はマカテイのSM JAZZ マンションの裏に広がる広大な敷地。しかし ここは普段はストーリートチルドレン等の寝場所。この日の為に何日か前から綺麗にするが。。写真のような有様で地下には埋められるはずの棺桶がマンションになっている。故に現地の人はこの墓地角に建つJAZZ, マンションを 棺桶マンションと陰口を言っている。

この2つの政府墓地を政治家は、利用しようと必死だが、マカテイにあってもマニラ南墓地。名前がマニラだからマニラ 市 いやマンニーラ市の飛び地と、14年前の前大統領 エストラーダ。半年で汚職の酷さで国民によって引きずり降ろされた彼が、日本では考えられないが マニラ市長に帰り咲き、このマカテイ市にある墓地に自分の顔写真を載せ、ウェブページでも真っ先に自分の顔。金と懐に拳銃があれば なんでも出来るフィリピンを象徴しているが、国民の貧富格差と絶対貧困は増大するばかり。98%のセイントが貧乏である 過去32年に 嫌気がさすが、私の力などでは変わらない 現実。

マニラ:マカテイの一角に細く鉛筆の様にそびえるブルーカラーの トランプ タワー53階。ここは10年前にマカテイにあったインターナショナルスクールがBGCに移るのをきに、その場所を手に入れたセンチュリープロパティがAベニューと言う小さなモールを作り、その周りを開発を進めて、トランプの名をどうして手に入れたか、又はトランプから金を引っ張ったかは不明だが、ご覧のようにトランプ タワーを完成した。この地域はマカテイ北に位置する、女の子お持ち帰り専門のゴーゴーバーが集中するブルゴスの横で、最近はマッサージと言う触れ込みで娼婦が道に溢れている。昔はそんな事は無かったが、町の主な経営者がアメリカ人が手を引き、その後を中東イラク人に代わって行き、イメージが代わり、最近は日本人経営のお持ち帰りゴーゴーバーもちらほら。そしてその客を狙ったホテル 最近は高層に成ったホテル郡が建ち並ぶ地域。写真右側と成った地域。私が28年前に最初に作った懐石レストランもここにあった。今はマカテイ南側 反対側にあるリトル東京側に日本人向けカラオケ が集中し、この地域には無くなったが、昔はこの地域に有名 高級なカラオケが集中していた。ゴーゴーバーとカラオケの違いはゴーゴーバーはバーファインというバーが女の子によって1日稼げるであろうと言うお金を払えば、お持ち帰り出来るシステムで、アンゲレスやその他の地域と同じ。しかし 日本人経営のカラオケは、建前上 お持ち帰りが出来ない事に成っている。最も現地がやっていてカラオケの名を使っているのは、前者と同じである。

しかしこの地域は道が狭く、一方通行も多く、毎日大混雑。パーキングも無いので、マカテイからは歩くか、タクシーとなるが、先日うちのお客様 日本人がこの途中の道で、シャブ中だと思うが、 怪我は大した事では無かったが、刺された。

又は道で客引きする女?の30%はオカマで、これを引っかけた方は要注意。私はそのトラブルで2度 この先にある警察分署に引き取りに行ったことがある。(^-^)/

私が来た30年前。よく人はフィリピンの発展は素晴らしいというが、私は2002年まではそうだが、それ以降はむしろ落ちていると思っている。都市部にビルは馬鹿のように建てたが一本10億円のビル50本建てたって500億円その倍の100本でも1000億。F35戦闘機10機分で、見かけを良くしただけだ。中身のない虚構としか思えない。教育レベルは85位から108位、アジア一位がバングラデッシュと肩を並べるまで落ち。新車の販売数から2:98の金を持つ人、銀行口座も持てない人の比率は変わっていない。貧困は地方部に広がり、貸し先が無い地方ルーラル銀行の金を中央に集めただけだ。高級マンションとは言うものの、AIRBnBでマンション業者が短期の貸し手探しに夢中で、ビルの品格などは既にない。新たに建てた事務所ビルはコールセンターの呼び込み合戦。呼び込めると他のビルが空室となる。商業ビルのテナントも既に採算ベースの限界を超えている。BGCボニファシオグローバルシチィもコールセンターやその他で働くものの為のBGCバスの運航も限界で通勤時間のバス利用者が溢れ、バス停では下手すると2時間待ちまで来ている。その為コールセンターでは自前の通勤バンを用意しているがこれは予想外のコスト高となる。駐車場も満杯で昼間は1時間待ちでBGC来客者はそれが嫌で来てくれない。しかしジプニーの運航を許可した瞬間にBGCはマカチィ同様に浮浪者の街になる。右を向いても左を向いても、過去のきちっとした積み上げをしなかったツケがここにも表れている。