物価が安かった1986年〜1995年代のマニラ、アフター5の楽しみ方。今より楽しかった。

マルコス時代に抑制されていた物価が、徐々に上がり始めた時代。言わばフィリピン本来のバブル時代で都市部でも平米5000ペソの土地が、徐々に8万ペソまで自然上昇していた時代。私ですら買っていたゴルフやスポーツクラブ会員券からマンションが値上がりして、売り買いをして最終的にオルチィガスでビル用地を購入して大儲けが出来た時代。日本にいた息子や娘の学習院や慶應の学費がその儲けで送金していた時代で有る。まるで日本で仕事を始めた時のバブル時代の始めの様だった。私はラッキーで日本のバブルとフィリピンのバブルを2度体験出来た。
当時は夜12時前に自宅に帰る事は無かった。当時は日本の1万円が1,700ペソで千ペソ札は無かったし、五百ペソ札も無かった。また有っても500ペソ札では釣り銭が無い時代でもあった。カラオクに遊びに行ってもお一人200ペソぐらいで、当時の日本は一万円札は、日本の中では、今の様に価値があるものでは無かったので、今は価値があるが、余計に気が大きくなっていた。よし毎晩1万円を使おうと思って使うが、当時から予算主義のケチだったが、使うにはどうしても12時前には使えなかった。笑笑。マカチィにいた私の通常コースは、当時はグリーンベルトは1しか無く、後は公園の様になっていたが、雑木林の中にスペイン風の2階建は教会の場所まで連なっていた。そこには世界中のレストランがあり、6時になると各レストランから音楽と歌声が聞こえて来る。だから今のグリーンベルトなんて行きたくない。私が好んで行っていたのは、イギリスパブで、ギターを聴きながら、ビールを飲んで、シェファードパイを摘む。その他はニューオーリンズにジャズを聴きながら、アメリカンステーキ、かもしくは、スペイン料理、ドイツ料理と分けて行っていた。そして7時を回ると、インターコンチネンタルホテル(今は無き)かマンダリンオリエンタルホテル(今は無き)バーラウンジに行って、ワインを飲みながら素晴らしい7名グループの音楽を楽しみ(これらのグループは六本木でも楽しめた)。10時近くになったら、当時は今の様にリトル東京側には繁華街は無く、日本カラオケもゴーゴーバーも全てブルゴスにあったので、そこへ行き、ゴーゴーバーを2〜3軒行くか、日本のカラオケ とは言え、当時はカラオクが無く、ピアノバーだったが、行き、12時を過ぎるとペニンシュラホテル前のRJロックンロールに行き、ホールに集まる100名位の男女が踊るホールで踊りを楽しんだ。これがルーチィンだが、偶には遠征をしていた。一つは、ベイサイドのロハス沿いに、プレイボーイクラブもあったが、日本でも昔流行った大箱キャバレー 全国にあったミカドの様な、女の子が何百人といて、大きな器の先には大きなステージがあり、常時50名程度の歌手や演奏者がそのステージの上にいて、交互に演奏する。女の子は指名がいれば良いが、そうでなければ、鏡ばりの部屋にいる女の子を指名する。私が好んで行っていたのは、ロハス通り沿いのマニラベイクラブ。私はこのロハス通り裏のエルミタにあるゴーゴーバーは嫌いで行かなかったが、当時はエルミタ通り300m両側は車の中からストリップが楽しめた。しかし、ただ女の子を買うと言うのは好きでは無いので、行かなかった。それにもう一つの遠征は、ケソン通り沿いにある、大箱キャバレーで華僑がよく使うキャバレーでは、女の子を一般、女優系、モデル系と分けて、基本料金が違い、ロハスやマカチィより高かった。私はよくその中のペガサスに行っていた。オーナーはロータリアンで知っていた事もある。

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