フィリピン2代目大統領のケソンを30年来の友人が演ずる。

写真左上の30年来の私の友人。と言っても写真の私は40歳で彼は20歳。現在彼は50歳である。彼はアーチィストであるが、現在彼は、プロダクションも持っている。その彼が今取り組んでいるのは、フィリピンの2代目の大統領 マヌエル・ルイス・ケソン・イ・モリーナこの名前は、スペイン語圏の人名慣習に従って、第一姓(父方の姓)はケソン、第二姓(母方の姓)はモリーナです。(Template:スペイン語圏の姓名)Manuel Luis Quezon y Molina 大統領と言っても米自治領フィリピン第2代大統領、任期 1935年11月15日 – 1944年8月1日出生 1878年8月19日ニューヨークで死去 1944年8月1日(フィリピンのコモンウェルス(独立準備政府)初代大統領。 20ペソ紙幣に肖像が使用されている。何故ニューヨークかといえば、日本のフィリピン侵攻でアメリカに臨時政府を作っていた事である。
現在のフィリピン大統領は16代目とあるが、フィリピンのコモンウェルス(独立準備政府)初代大統領が、何故フィリピン第2代大統領なのか
途切れ途切れたフィリピン大統領の歴史。植民地であるが故に、複雑な歴史を辿っている。元々1589年からスペイン領で独立の反乱を起こしたボニファシオであったが、1896年10月から1897年初めにかけてスペイン本国から兵力を補給され、態勢を立て直した植民地軍は反撃を始め、一時はルソン島中南部を掌握していた独立派は、ボニファシオ処刑の翌日には根拠地のカビテを放棄し、山岳部のブラカン州ビアク・ナ・バトーに追いつめられた。ここでアギナルドらは11月1日独自の憲法(ビアク・ナ・バトー憲法)を制定、「フィリピン共和国」(ビアク・ナ・バトー共和国)の成立を宣言したが劣勢はおおいがたく、11月18日から12月15日にかけて、スペイン総督との和平協定を結び、スペインによる改革実行の確約と引き替えにアギナルドらはいったん香港に退去、ここに亡命指導部を設けた(12月25日)。しかしその一方でボニファシオらの流れを汲む人々はなお独立をめざす戦いを各地で継続していた。1898年4月25日、キューバ独立革命をきっかけとした米西戦争が勃発する。その直前、香港でアメリカ合衆国との間に独立援助の密約を取り付けていたアギナルドら亡命指導部は、マニラ湾海戦(4月30日〜5月1日)での米艦隊大勝を経て、5月19日、米軍を後盾にフィリピンへの帰還を果たした。5月24日、アギナルドは本拠地であるカビテで「独裁政権」の樹立を宣言、6月12日には独立宣言を発し「独裁政府」大統領に就任した(現在のフィリピン「独立記念日」)。その後まもなく6月中に独裁政府は「革命政府」に改組され地方政府の組織化が始まり、7月15日アポリナリオ・マビニを首相とする革命政府の内閣が発足した。その一方で、これまで外国からの武器購入交渉を担当していた、在外有志による香港委員会(1896年11月結成)は、革命政府の外交活動と武器調達にあたる香港駐在の「革命委員会」として公式機関に改編された(6月23日)。以上のような行政機構の整備とともに、独立派はアメリカ軍と提携して各地に侵攻し、8月末までにルソン中央部・南タガログ地域をスペイン支配から解放して革命政府の支配下に置いた。ところがこの前後から米軍との協力関係は次第に微妙なものとなり、8月13日、植民地支配の中心地であるマニラを占領しスペイン軍を降伏させた米軍は、それまで軍事的に貢献してきた独立派の入市を許可しなかった。
9月10日、マニラ近郊のブラカン州マロロスが臨時の首都となり、9月15日にはフィリピン人の代表よりなる議会をこの地で発足、さらに翌1899年1月にはマビニを首班とする内閣が発足し、1月21日に独自の憲法(マロロス憲法)を制定し1月23日の「フィリピン(第一次)共和国」(マロロス共和国)樹立宣言に至るまで独立国家としての整備を進めていった。この時点で共和国政府はミンダナオを除くフィリピンのほぼ全土を掌握していた。しかし前年の1898年12月10日、米西間のパリ講和条約で20,000,000ドルと引き替えにスペインよりフィリピンの主権を獲得した米国は、12月21日マッキンリー大統領が「友愛的同化宣言」を発して独立を否定、マビニ首相により進められていた対米交渉も暗礁に乗り上げ、1899年2月4日には両国間の戦争(米比戦争)が始まった。
しかし1899年3月31日には早くも首都マロロスが陥落し、以後共和国政府は中部ルソン地方のタルラク州・ヌエバ・エシハ州を転々と移動することを余儀なくされた。そして11月12日アギナルド大統領はパンガシナン州バヤンパンで正規軍の解体と遊撃隊によるゲリラ戦を布告し、ルソン北部の山岳地帯に撤退した。
しかし独立派が圧倒的に優勢な米軍を相手にねばり強さを見せるのはこれ以降であった。アギナルド政権下で非主流派として脇に押しやられていたボニファシオ派や革命的宗教結社などは熾烈なゲリラ戦を展開して長期間にわたり米軍を悩ませた。1901年3月23日、イサベラ州で米軍に捕らわれたアギナルドは4月1日アメリカ支配への忠誠を誓うとともに同じ独立派の諸部隊にも停戦と降伏を命じ(同じく捕虜となったマビニやリカルテらが断固として服従を拒否した態度に比して、これらはアギナルドの人気を著しく凋落させる結果となった)、こののち各地で独立派幹部の投降が相次いだことから、同年7月にアメリカは軍政より民政へ移行し、早々と米国に忠誠を誓っていた親米派フィリピン人(かつてプロパガンダ運動を支持していた新興有産層が多かった)を行政機構に登用、有力者を取り込むことでアメリカ統治体制の安定をはかった。ところがアギナルドに従わず「革命軍最高司令官」を称したミゲル・マルバール将軍など抵抗を継続する勢力もあり、マルバール投降(1902年4月)後の、1902年7月4日になってセオドア・ルーズヴェルト米大統領はようやく独立勢力の「平定」を宣言した。しかしその後も、農民など下層民の支持を受け「タガログ共和国」を称したマカリオ・サカイ率いるゲリラ部隊(1904年〜1906年)など反米ゲリラはやまず、米軍が投降勧奨政策と徹底弾圧政策(この時米軍がゲリラと農民の結びつきを絶つために採用した「戦略村」は、ベトナム戦争にいたるまで米軍の対ゲリラ戦争の主要な戦術となった)を併用しつつこれらの独立派勢力を完全に鎮圧し、植民地支配体制を確立したのは1910年頃のことであった。
かくしてフィリピン(および東南アジア)史上初の植民地独立革命はアメリカの侵略により挫折に終わり、真の独立の実現は第二次世界大戦後の1946年まで持ち越されることになった。1916年、安定した政府の樹立を条件に将来の独立を盛り込んだアメリカのジョーンズ法(タガログ語版)(フィリピン自治法)の成立にケソンは尽力、その功績を背景に二院制議会の上院議長に就任した。1935年、新憲法が国民投票で批准され、総選挙でコモンウェルスの大統領に選出された。大統領再選の1941年12月に日本がアメリカに宣戦布告し、翌1942年に日本がフィリピンを占領した後、渡米し亡命政府を樹立した。フィリピン完全独立を見届けることなく志半ばの1944年8月1日にニューヨーク州で持病の肺結核により逝去。遺骸はアーリントン国立墓地に葬られて、第二次世界大戦後の1946年に故国のケソン市のケソンメモリアルサークルに葬られた。
と複雑怪奇な歴史の第一代、第二代大統領である。彼はそれを描きたい様だ。楽しみである。私は昔、俳優志願。舞台にも立っている。日本人の何かの役をくれないかしら。。。(笑)

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