今うちの貸家を借りてくれる人がいて、20年前の思い出が甦った。

この時期にうちの貸家を借りてくれる方(日本人)が現れ、何かと前の資料を見ていたら当時20年前の思い出が甦って来た。(笑)。私は2つの集合ビルの100室と28の一軒家を貸しているが、ご多分に漏れずこのコロナで賃貸人数が70%以上減少していて、苦しいが、しかし殆どが20年以上経つ原価償却物件で、修理営繕は必要があるのと、管理している20名程度の従業員はいるが、私が給与を取らなければ問題は無い。だからコロナになって、自分の収入は取っていない。まあその前も業態変化に伴い、7年間位、この施設から無収入の時があったので、まあ慣れた何時もの事である。一つでのビジネスなんてそんなもの。
さて、この写真の2階屋だが、うちではG-16と言い、16番目に建てた家で28の家の中でこれともう一つの家以外は全て平家である。この2階屋と後4軒だけが軽てん(軽量鉄骨)で建設した。一般のセメント、ブロック作り、俗に言うラーメン構造がフィリピンの一般的建て方だが時間がかかり、約一か月半から2か月で建つが、この計量鉄骨作りでは3週間で建てられたので良かったが、フィリピンでは馬鹿な毛沢東で作った安い中国製鉄輸出で他国の製鉄所を潰して来たが、フィリピンの製鉄会社は、国営を含めこの時は既に倒産していたので、一つ残るハシント製鉄会社の協力で作り始めたが、しかしそのハシント製鉄所も傾き、供給が停止したので打ち止めとなった。そんなフィリピンの産業が火を消していった思い出もあるし、この家はうちでは当時セントラルキッチンに使っていたのは近所の工場などにお弁当の配達もあった。当時は私はマカチィに帰らず、この施設内に宿泊していたので、ラグーナ界隈の飲み屋は制覇していた。(笑)。当時は隣町のまたカランバやビニャンには多くライブハウス(収容人数200名前後で屋根付き野外)が多く、その中に日本人経営のライブハウスもあり、どっかで飲んではよくそこには行っていた。これらの中から今良くあるカーボーイハウスなどのライブハウスが出来上がった。うちにいたお客様も夜は退屈していたので、ちょっと気の利いた女性二人雇ってプールサイドバーもオープンしていたので、5時から11時まで上の自分の部屋に帰ってもする事が無いので、ここで呑んで小料理を摘んでいた。またその日本人のライブハウスから歌手や器材を持って来て貰い、近所の住人を招待して前の広場で夜会もよく開いていたし、うちのヘリポートにもヘリで来るお客さんも多かった。うちのコンセプトが珍しかったので、フィリピンのデベロッパーが興味深々だったようだ。若かったな〜 とは言えその時は既に50歳。やっぱり60歳迄はだいぶ元気だった。(笑)しかしビジネス、ソニーの様に4本柱は欲しいが、昔は飲食業が1つの柱になっていたが、家賃高い、食材高い、レストラン出来過ぎと人口は増えたが、それにしてはレストランで食事が出来るための給与は20年間上がらず、馬鹿なフィリピンの経済構造、外国人ではこの差は埋められない。飲食業を12年前に全てを売却して良かったが、持っていたらとんでも無い金食い虫になっていただろう。次なる柱となる仕事が見つから無いのがフィリピン。
法律事務所のパートナーも食うには困ら無いが、とても柱になるものでは無い個人事業。飲食も絶好調の時には月1000万円以上あった。なんでも年に億以上の金が動かないとお話にならない。真夏の夜の夢。フィリピンは2000年頃迄は良かったが、今は私の知る35年のフィリピン史上最悪と言えるだろう。

0コメント

  • 1000 / 1000