2002年。まだ元気だったな〜。フィリピン政府特別法人のPRI理事でフィリピン退職庁支援で日本市場開拓作戦。

フィリピン退職者ビザを発行するフィリピン退職庁は、発足の1982年から大統領府に附属していた。当初は不法滞在で金持ちになった華僑に対して、マルコス大統領が、金を払えば、永住権と言う特別待遇を与えると言う仕組みで作られたもので、高額な金額であったし、マルコス大統領のポケットを潤した仕組みである。マルコス大統領失脚後も、アキノ、ラモス、エストラーダと大統領府の直轄の組織であったが、アロヨ大統領の時にDTIフィリピン通産省に管轄が移り、長官に将軍アグリパイ氏、補佐役にフィリピン通産省 事務次官であるオドーニアス氏になり、退職者拡大に動き出した。そして不動産、病院、老人ホーム等の代表者で特別法人を設立して、退職庁としては動き辛い部分をサポートする事を目的として設立、私は理事に選ばれた。週2回招集される会議は辛かったが、大枠が決まり、私は日本向け退職者開拓を仰せつかった。私の攻略は日本に公式代理店を数多く作り、その紹介から来られる方々を私の方でお世話すると言う方針だが、他に大手企業の総務と連携を図り、退職者を誘致する方針の2つに分けられた。まずは当時の高齢者対策を主に扱ってられた、今は亡き中村議員をアレンジして、その前に2度も日本に言ったが、アグリパイ長官とオドーニアス事務次官に表敬訪問をして貰った。その後、事前に集めていた、公式代理店の方々と会って頂き、その場で公式認定書を手渡した。場所その他は、その後の宴会も含めて、学習院の先輩にお世話になった。その後2日間は4つの大手企業を表敬訪問をさせて頂き、フィリピン大使館でも打ち合わせを行った。まあ面白かったが、若かったから出来た様に思う。しかし、時とは面白いもの、4年後の2006年には、それまで好きでフィリピン良い所一度はおいでよ。の私がフィリピンに来ても時間を無駄にするだけ、来ない方が良いよに変わった事だ。それまでこれ程日本から人を呼んだのに(一時は年間1000名以上を空港に出迎えた)その私が気付いた事は、フィリピンに将来が期待出来ない事。ビジネスなので、バランス良く静かに変化するのは、それを予想しながら成長出来るが、歪な経済は破綻を起こす。人件費もゆっくり上がってくれれば、対応できる。所詮始めた時は人件費が3倍になると予想して、建物の作りから変えていたが、しかし、人件費は上がらず、他の物価の異常高騰。特に医療費と交通費、そして不動産、家賃。そこに98%が火力発電のフィリピンの電気代。前にも話したが、サイドビジネスであった飲食店3店舗の合計電気代が、3店舗全従業員給与を上回った2008年からの異常な家賃高騰。モールやお店を誘致するスペースが10倍以上増えても、馬鹿の様に、日本からもそうだが、入ってくる飲食店、増えても家賃高騰は続き、食材不足で食品高騰。2012年に1991年から続けていた飲食業を全て売却。足を洗ったが、買ってくれたところは2年後に倒産。やっぱりね〜と言うのが本音。ィリピン日本人誘致を辞めて12年、それまで100名以上居た日本人が10名以下になり、2018年から、介護や高齢者向けサービスを段階的に停止して、全寮制のトレーニング施設へと変身をして来たが、パンデミックで苦しいが、以前の状態(従業員200名以上)なら今は倒産しているが、今は笑いながら苦しんでいる。30年以上使わして貰ったフィリピン退職者ビザだが、永住者は旅行傷害保険に入れないので、1〜2年のうちに返上しようと思っている。観光ビザだって、ちゃんと申請すれば3年間更新無く住めるし、会社でビザも取れる。(笑)日本に片足で日本の困窮青年支援に力を使いたい。日本の老人をフィリピンを使って助けようと思ったが、青年の方が助け甲斐がありそうだ。

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