フィリピン・ビジネス私の失敗例 その2

フィリピンに来た32年前。マカティでも1日5時間の停電続き、何をしたら良いのかと思っていたが、マルコス時代に抑圧されていた経済、特に不動産は確実にバブルに向けてまっしぐら状態で、不動産や会員権の買って売っての商売は、1986年から1995年までは、寝てても何もしなくても儲かった。当時息子は学習院、娘は慶応の学費と生活費をこの資金から日本に仕送りをしていた。 1995年にオルチィガスのビル用地を売ったのを最後に、それまで続けていた。最もこの用地を私から買ったマンション業者はその後倒産した。この事実からその後どう成ったのか想像が付くようにフィリピン第一バブルの崩壊である。2018年はフィリピン第二バブル崩壊の年である。

それは以下から詳しく参照ください。

http://www.munetomo.club/pages/1511092/economy

さて失敗例だが、1988年、暇なので何か遣ろうと最初に始めたことは、マンパワー会社、当時は10万円程度の補償金で簡単に始められた。日系企業への運転手やお手伝いさんの派遣であった。まにら新聞に公告を出して始めた。今ならプライマーなのかも知れないが、プライマーの最初のオーナーはゴルフの手袋を作る工場のオーナーとして来られた方で、良くして頂いた。まあこれが一般的なスタートだ。当時は此方に工場進出を考える日本中小企業が大挙して来ていた中、まあそれなりに、フィリピン人気質を知るには面白かった。それが今度、いざ工場用地が決まり、工場建設から稼働へと移る中、中小企業の社員や社長を含め英語も出来ず、何を何処から買ったらよいかも解らず、如何にか成らないという相談から、華僑本部のデビソリアやキャポを回り、仕入れ先の確保、中にはユニフォームの注文も貰い、縫製工場(とは言っても小さいものだった)を回り、発注体制を確保。まあこれは日本でも遣っていたので簡単に出来たが、その後自社内に縫製修理場も作った。それから工場地帯である、中小企業の進出が多かったロザリオカビテやファーストカビテ、サンタロッサ テクノパーク、カブヤオライトサイエンス等を巡回するトラックサービス網を作り、一時はまにら新聞のカビテ、ラグーナの配達も遣っていた。工場のオープニングの舞台作りから、パーティーの余興から食事。最後は社員食堂の運営までいくつか遣らされていた。1992年には日本寿司懐石レストランもオープンしていたが、1995年には基本ビジネスに本腰を入れるという理由もあったが、これらの商売は今後難しいとの判断で全面撤退した。(日本食レストランだけはマンダリンオリエンタルホテル内に移したが。。。)

これはフィリピンビジネスの問題点でもあるが、最初は日本人同士の合意で全てが成されていたが、日本人は立ち上げ後にその部分より他にも重要な事もありタッチしなくなる、その代わりに成るフィリピン人が現れるのだが、これが問題。華僑はこれは美味しいビジネスだと思い。ちゃっかり自分の息のかかった者を入社させ、思った通り他より頭角を現し、そうした部署に配属していたのである。それは今でも続く、日本企業の華僑の間接統治である。勿論 今までうちが仕入れていた先の人間が、勿論私より安く直接に販売してきたのである。うちの売りでもあった、A4サイズの紙。フィリピンにはロングとショートサイズしか無かった紙だが、日本から持ってきたコピー機には合わない。そこであちこちから紙をA4サイズに切らせて納品していた。これはうちの独占状態だったが、しかし、一気に巻き返された。(笑) これは一例だが、全てにこうした影響が表れ始め、難しいなと思い始めていた。

まあ最も日本企業のあいつぐフィリピン撤退やベトナム等への移動で、華僑は工場への賃貸の儲けやこうしたビジネスの縮小を余儀なくさせられたのだから、痛み分けなのかもしれない。

munetomo.club 棟朝淳州

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