時の流れは早い。1986年から1995年までの思い出。

エドサ革命1986年2月25日にコリーが大統領就任宣誓を行い、多くのマニラ市民によってマラカニアン宮殿を包囲されたマルコス夫妻は、アメリカ軍のヘリコプターで脱出した。その後マルコス夫妻とその一族は、クラーク空軍基地からアメリカ空軍機でハワイ州に向かい、そのまま亡命し、ここに20年以上に亘るマルコスによる独裁は終焉を遂げた。この後に私はマニラに来た。そしてその後。1986年11月15日15時頃、当時の三井物産マニラ支店長であった若王子信行氏が、マニラ郊外のゴルフ場からの帰りにフィリピン共産党の軍事組織、新人民軍(NPA)のメンバー5人に誘拐された。その後事件が公になると、当時の日本では各種マスコミの報道を通じセンセーショナルな話題となる。

こうした8月に一人でマニラ入りした。満州でお世話になった山下大将の父の願いもあったが、脳梗塞で倒れた父とその姐の痴呆により、介護の問題とお手伝いさん等の膨大な介護費用問題から、日本で老人ホームを建てかけたが、金利の急速な低下から介護費用を信託銀行との提携で賄う計画が頓挫し、世界アチラコチを見て、中国の海南島、三亜とマニラの2つに絞って考えたが、お金資本管理の問題や永住ビザ問題もあり、この様な状態では有ったがマカティに2つのマンションを買い、叔母と父を連れてきて、面倒を見るメイドも探し、父と叔母のマニラ生活が始まった。時をして、NHKプライム11でアジアで老後を暮らす人の特集があり、父、叔母、他の2家族が30分番組で紹介された。当時のマカティは、いやマカティは以前はマニラ空港で、アヤラ通リとパセオ通リが滑走路で、今でもトライアングルパークに残るネルソンタワーは当時の管制塔であった。当時はグリーンベルトもグロリエッタもなかった。購入したマンションは今でも残る、レガスピのアジアンマンション1とサルセドのワン・サルセド・プレースであった。しかし私は当時、昔の名残で、中国真珠の脅威から日本真珠を守るために、日本最大の生産地、愛媛県宇和島真珠加工協同組合の理事となっていたので、日本との行き来をしていた。幕張メッセでの世界宝飾展でパネラーをしたり、新しい真珠の基本の本を書いたりしていたが、まあ中国に破れた形の幕引きと成った。今の和牛の精子問題で、海南島が浮上しているが、中国スパイが日本にはうようよいる。

その後マカチィに戻ったが、まだ停電が続く状態で、介護事業は不可能なので、介護施設を開いたら飲食は要ることなので、マカチィ通リに寿司懐石の小庵を出した。笑い話だが、当時日本人の寿司職人を大阪から月給40万円、マンションは無料提供、車付きで雇ったが、それでも儲かった事を覚えているが、その人女に狂って、今どうしているのかしら😂 話は戻るが、同じく施設が出来たら要る「人材派遣業」をスタート(当時は安く出来た)、日本人の駐在員に運転手、メイドの紹介を始め、その着衣もあるだろうと考え、昔名残のデザイナー気分で小さな縫製工場も作った。それから物の仕入れや物流も考えて、当時旺盛に拡張していた日系工場の御用聞きを始め、当時A4サイズの紙が無かったので、華僑紙問屋で切らせて納入したり等何でも屋を始めた、社員の制服の注文や社員食堂の運営や工場の落成式の舞台創りから進行(音楽や食事を含む)まで行っていたが、工場進出よりも撤退が増えてきたのがその後である。それと並行してやっていた土地ころがしの資金も、オルチィガスのアメジスト通りとパール通り角のビル用地に最終的につぎ込み、都市型老人ホームを考えたが、結局売却し、現在のマカチィから40分のカブヤオに敷地を買い、ゼロから建て始めたのが1995年である。長いようで短い時間であった。、

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