マニラ・リトル東京が最初に目指したものと今。

前にも言いましたが、1999年12月にオープンしたマニラ・リトル東京、建築をやっていた木戸さん、戦後マニラ最古の日本食材店「フジマート」の島田さん、そして私の3名が主体となり、隣の紙問屋のタイプレックスのタンさんが倉庫に使っていた場所にマニラ・リトル東京を計画。約1年後にオープンに漕ぎ着けました。

当時は賃貸料が平米P350位でしたが、両側に有る通路部分や、木戸さんが当時の日本人会が盆踊り大会を毎年かなり大掛かりに行っていましたが、木戸さんがいつもやぐらの上で大太鼓を叩いていたこともあり、中庭にやぐらを作りたいとの事で、本来中央にも店を作るべきだったが、現在の姿になりましした。リトル東京の考え方は、思い出横丁と同じで、1軒あたりの広さは約35平米で、平米P500として、一軒の家賃が17500ペソ(4万円)として、まさしく「深夜食堂」「小料理屋」コンセプト。ただ日本の場合は店の上に住む所や休憩場所があるが、それは無い。 オーナー調理人が料理を出し、フィリピン人奥さんがアシスタントする。又は食事を出すスナックのママ、小料理屋の女将等のイメージで、1日の売上目標が2万円。1000円のお客が昼夜で20名で十分。2万円1日で2日で家賃が出せる。後の25日でX2万円で50万円。仕入れ、その他の経費で45%として27万円から30万円がオーナーに入ると言う考えが基本であった。そして、私も造作を木戸さんに頼んだが、内装、イス・テーブル・カウンター等で20万ペソ(45万円)で済んだ。2年償却でも1ヶ月の償却が1万8千円だから、全く問題ない。ただ私は他でも大きく飲食をしていたので、当時は「深夜食堂」「小料理屋」コンセプトは持っていなかったので、フィリピン人二人に任せて出来るもので、損しなければ良いと考え、サイフォンで出すコーヒーや抹茶と甘味の店で、1日の売上目標は7000円(500円の客が15名)x25日で18万円売上、原価50%でも、9万円で家賃4万円と2名の人件費その他が出れば良しとした。😁

その後オリジナルの木戸さんは色々の事情で去り、島田さんは脳梗塞で一線を去り、私はパラポラ・アンテナの醜い日本人同士の争いを見て(私は1本のアンテナを皆で分けると思っていたら、日本放送でお客を呼ぶのに自分だけという人が現れ、今では3本のアンテナが立っている)、その時投資した20万ペソを払ってくれる人がいたので、店を売って去った。

その後、その後35平米では売上の限界と2店舗打抜きで借りる人が増え、広場のやぐらを壊し、テーブルを置くように成った。結局一般的なレストランに変わった訳だ。

今は、リトル東京内の成功で他店化をしたが失敗した人、夫婦二人でやっていたが、フィリピン人奥さんの家族を手伝わさしていたが、その数が増大し、理想の収益が出せなくなり日本に戻った人、フィリピン人料理人に頼りすぎて、味が落ちたので傾いた店、等々。。何故最初のコンセプトに戻らないのか?「深夜食堂」「小料理屋」コンセプト。昔マニラでの飲食業で名前を馳せた人が大きく失敗して、そのどん底から、マカチィの裏路地で、まさしく自分が調理場に立つ「深夜食堂」「小料理屋」コンセプトに立ち返って、経験を活かしやっているが、これが大成功している。1日2万円の売上ではなく、4万円は売っている。家賃もリトル東京よりも安く。即ち、オーナーの彼に残る金は月60万円となる。彼に聞いた「他店化するか?」彼曰く「絶対にやらない」😁

0コメント

  • 1000 / 1000