フィリピン退職庁ビザ(SRRV・VISA)と私の歴史

34年前フィリピンを選んだ理由の1つは永住ビザが簡単に取れる、2)はアメリカの法律がベースにある 3)は土地や自動車所有が日本人でも出来る 4)英語が出来る 5)安い であったが、私もずいぶん昔はフィリピン退職

元々フィリピン退職庁はマルコス時代の大統領府に作られた。それは増加する中国人違法滞在者が結構儲けていたので、マルコスが金を払え、そしたら永住権を遣るよという処からスタートした。私が来たマルコス後のアキノ時代もその後のラモス時代も大統領府に属していたが、各種ある庁の中でフィリピン退職庁のみが黒字経営とあって、他の省からの移籍要求もあった。当時は35歳以上50歳までが75000ドル(800万円)50歳以上が50000ドル(550万円)の預金でその預金は不動産やゴルフ等の会員権や会社株式に転用できた。それから当時は自分の使っていた自動車も無税で輸入できた。私はその時代で父、叔母、私で1千9百万円を支払永住権を得た。まだ2000人台の事である。そして私の当時のビジネスモデルである「温かいフィリピンで豊かな年金暮らし、介護が必要になっても有料老人ホームが付いている」というコンセプトからラモス時代のフィリピン退職庁の長官であったレビステ氏(バタンガスの大物)とも親しくさせて頂いた、彼は自分はマジシャンだと豪語していた。その後テレビアナウンサーであったローレン上院議員と恋に落ち、グリーンベルト前の彼のビルが次期大統領候補の選挙事務所となり、何かと多く呼び出された。しかし彼のスキャンダル(自分の運転手を銃で撃ち殺した)で夢は崩れた。その後のエストラーダ時代、たった6か月だけだったが、その時のフィリピン退職庁の長官、名前も忘れたが、まあこすっからい人物であった。そしてアロヨ時代、フィリピン退職庁はDTI(通産省)に移り、長官には将軍を引退し警備会社で成功していたアグリパイ氏が任命され、補佐役に通産省次官のオドーニエス氏が入り、病院組合や様々な外国人の退職に関する機関が入った下部法人が設立され、私も理事に選任された。そして私は日本担当でフィリピン退職庁の連中を連れて国会議員(亡くなられたが中村参院議員など)を訪問したり、日本にフィリピン退職庁の代理店制度を作って発足集会を開いたりで、自分のお金で結構動いた。

しかしアロヨの失脚からこうした動きは自然消滅した。次のアキノ大統領ではフィリピン退職庁は観光省に席が変わり、今の大統領では入国管理事務所の諸葛となった。私自身も既にフィリピン永住という考えは、間違ったと思っている。その理由は医療費高騰、物価高騰、治安悪化となるが、どっかの島で原始生活をする以外安さはフィリピンには無い。しかし日本人の尊厳ある生活では、東京より高い。

3年5年住むならフィリピン退職庁のビザは必要ない。弁護士に依頼する必要はあるが(うちでもやっている)観光ビザでも3年は一気にとれる。またその後2年の延長も出来る。即ち5年間フィリピンを出ることなく滞在できるのだ。

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