アヤラ・トライアングル・パークの歴史と私

マカチィは写真にあるように、田んぼの中に作られたネルソン飛行場を当時ブエンヂィアのタフトの手前のマカチィ隣接地でフィリピンで初の都市開発を進めていたアヤラが、この飛行場移転に伴い、買い取った場所である。BGCもそうだが、アヤラが主幹事になって当時のデベロパーを集めて買収した。そして飛行場の主滑走路をアヤラ通り、副滑走路をマカチィ通りとして、繋ぎにパセオ通りを作り、その外周にブエンヂィア(ヒル・プーヤット)を作りアヤラが元々開発をしていた場所に繋げた。主滑走路と副滑走路、パセオ通りで囲む三角地帯をアヤラ・トライアングルとして緑地帯として残した。私の来た1886年にはまだ今のグリーンベルト1を建設中で、まともなホテルと言えば、ペニンシュラ、マンダリン、インターコンチ、日航マニラガーデン(現ヂュシット)位で12階建て以上の高いビルは無かった。来た当初はこのグリーンベルト1裏のアジアン・マンション1の2部屋を買い、その後アヤラ初の高級マンション・ワンサルセド1の一部屋を購入した。このサルセドにある12階から、アヤラ通りを超えたレガスピにあるアジアンマンションまで見渡せた時代である。その後どんどんビルが建ち、住友がエドサ通りにMRT(高架鉄道)を1999年12月に開業したので、アヤラはグリーンベルトよりグロリエッタ建設を急いでいたが、当時清水建設と組んでグロリエッタも作っていたが、同時に三角地帯のアヤラ・トライアングルは緑地帯、で雑木林であったがアヤラ通り沿いに証券取引所であるアヤラタワーワンを清水建設に依頼した。時は経ち、ドイツ資本の製薬会社がZuellig Buildingをこの三角地帯の向かい側にガラス張りの素晴らしいビルを建てた。そして今アヤラが、同じくガラス張りのビルを建てた。

しかし清水が建てたビルも当時としてはガラス張りのビル、しかしドイツが建てたガラス張りのビルは最新であり、ガラスの品質は素晴らしく、どちらも「品「を感じるが、しかしアヤラが建てた中国ガラスのビルは、ケバケバしく「品」が無いし、建ててる時の骨組みっを見たら中にも入りたくもなく、外側も歩きたくもない(笑)

それに比べてまだ残る空港時代の2階建て管制塔ネルソン・タワーは素晴らしい。以前は素晴らしいレストランにも成っていたが。。。

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