フィリピン1990年代の私の仕事 から新たなビジネスを考える。その1

1990年代はフィリピンが躍動していた時、日本の製造業がフィリピンに押し寄せて来た時、しかし2002年には撤退の嵐。今や中国撤退の嵐の中で、フィリピンは撤退先として選ばれない。フィリピン政府も動かない。という事はフィリピンに復活のチャンスがあるのか? 私はこの時代は、自分の本業も1996年に立ち上げたが、その前は様々な仕事をしていた。その中で遣っていたのは、ラグーナ、カビテに広がる工場地帯に進出して来た日本の工場に対して様々なビジネスを行っていた。便利屋のようで、これが無い、これ探してきて。。当時はご存知の様に紙のサイズはフィリピン・サイズでロングとショートしか無く、日本から持ちこんだコピー機には合わず、A4サイズが必要で有った。仕方ないので紙問屋を回りA4サイズに切ってもらうお願いをしたが、当時も紙は中国からで、A4サイズに切ると大分無駄な部分が多かったが、高く成っても仕方ないと切ってもらい、A4サイズを配り始めた。これは結構売れたし、その他にも多くの製品(例えば軍手)を届けていたので、言わば今で言う宅配業者と納入業者で、2台の車両で1日1回もしくは2回の割で回していた。勿論 工場の竣工式(写真)の舞台装置の設置から椅子テーブルの貸し出し、そしてケータリング・サービス、これは飲食業をマカチィで遣っていたので簡単に出来た。その他余興のバンドなども提供していた。縫製も遣っていたので、職員のユニフォームも提供していた。また社食の依頼もあり、多い時は6カ所で社員食堂も遣っていた。最後の方は工場で出来た不良品を買い取り、ディビソリアに売っていた。言わば同じ車の使いまわしでもあった。しかし、これも3年ぐらいは良かったのだが、日本からの進出も陰りが出来、それまでは、購買やその他は日本人だったので、話が直で解り合ったが、それがフィリピン人に成り、華僑の連中も私の遣っている仕事は儲かりそうだと気づき、華僑の遣る事は、フィリピン人に代わった購買の職員への賄賂、最後には自分のシンパを工場に入社させて、此方が提供するものに対して、文句を言わせるプロパガンダ。日本企業工場だが、中身は華僑に支配されるように成って来たので、ある提携していた工場の日本側の問題での倒産を期に、このビジネスから撤退をし、当時本業である介護ビジネスに集中したが、こうした経験があって良かったと思っている。

フィリピンで勉強させられる事は多い。私は提案紹介しただけだが2017年、同じ事をコールセンターに仕掛けたことがあるが、同じように華僑に依って牛耳られていた。(笑) フィリピンでは華僑が気づかない仕事をやる。しかし華僑が気づいたら辞める。鉄則だね。

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