亡き伊丹監督の「スーパーの女」を見て、商売道を憂う。

映画スーパーの女は、1996年の日本映画。伊丹十三による脚本・監督作品。スーパー大好き主婦が幼馴染の経営するダメスーパーマーケットを立て直していくというサクセスストーリーである。 大ヒットを記録して第20回日本アカデミー賞優秀作品賞などを受賞。主演花子役宮本信子は監督の妻である。その他に大ヒットしたマルサの女がある。まあ若い方はご存知では無いかも知れない。私はこの映画を見る度に、商売に対する気持ちを奮い立たさせて貰う。このスーパーの名前は正直屋だが、敵対勢力に追い込まれて、正直を失い、製造日改ざんや肉の混ぜ物や和牛と言ってはオーストラリア牛を売る様な、こうしたお客様に対する背信行為が日常化していたが、店長の幼馴染の花子の出現で、改善して、とうとう敵対勢力にも勝ち、地域一番店に成っていく。その過程を面白可笑しく描いた作品。しかし、そこには商売の根源でもある「損して徳取れ」や「三方良し、売り手良し、買い手良し、世間も良し」こうした商人道を改めて思い出させてくれる。私は成功していないので、大きな事は言えないが、しかし、商売に失敗する人は、この商人道から逸脱した時に起こっている事は確かであり、気の緩みがこれを許してしまう。いまの様な中共ウイルスで、商売が軌道に乗らない時こそ、原点回帰が必要である。
今こそお客様が何を求めているのか、それが今までの既存の方法で解決出来るのか、出来ないならどうすべきなのか。人を騙して自分だけ徳を取ろうとしていないか。「三方良し。売り手良し、買い手良し、世間も良し」をもう一度振り返るべきである。困っているのは、自分だけでは無い。人が困っている事と、自分が困っている、大きな負の力を、どうにか逆転の発想に出来ないのか。例えば飲食業で考えると、こんな味のラーメンが出来た、これならお客は来てくれる。その思い込みが、ここ迄の過度な出店ラッシュを作り、自滅して行くという事が、未だに解らずにいる。これでは「三方良し、売り手良し、買い手良し、世間も良し」に成っていない。私に言わせれば、思い上がりの品を買い手に押しつけているだけだ。この御時世、食事でハシゴをする程ゆとりは無い。1箇所で飲めて、摘んで、食べられる所が、欲しい。そこ1箇所で済むお店が欲しい。ボーナスも無い。昇給も無い。ローン地獄。とお客が思っているのかも知れない。
ラーメン屋に行けば、食べたら早く出て行って欲しいと、言わんとばかり急かされる。今までは2軒目、3軒目の1箇所にラーメン屋は位置づいていたが、一軒にしか行かないと決まった瞬間に、ラーメン屋には行きたく無くなる。それに今の若い日本人はカロリー取り過ぎで、戦後生まれの我々は長生きするが、飽食の今の若者は長生きしないのでは無いだろうか。そうした学術文献もある。世の中の生き方の変化も問われる時も来ている。
スーパーの話に戻るが、私が言う、各家に冷蔵、冷凍が出来る宅配ボックスが出来ればスーパーのあり方は変わる。各家に冷蔵、冷凍が出来る宅配ボックス事は難しいとの考えがあるが、今の冷凍冷蔵庫が内側の扉と外側の扉が有れば、外側を表に出せば、一台で可能で有る。という考えに立てば、実現不可能では無い。しかし、こう成った場合、スーパーは用無しになる可能性がある。これぞ。「三法良し。売り手良し、買い手良し、世間も良し」となる。ママチャリでスーパーに子供を連れて買い物に行かなくても良いならば、それも良し。(笑)このスーパーの女の話は25年前の話である。

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