以前に片手間の飲食業と言ったが、では私の本業(1983−2012)は介護事業であった。過去形だが片足日本作戦にも使える。

38年前に湯河原に介護施設と介護人の介護業務、医療検診記録を手元の電子手帳で記録、PCにデータを送れるシステムを開発して、介護施設の土地を取得して、介護施設設計図も出来て、写真のように、地元準備棟を建てて、介護施設の第1棟目の建設もスタートしていたが、辞めた経緯が有り、その後、フィリピンでの介護施設建設を目指して36年前にフィリピン上陸、それから15年前にそのフィリピン介護施設を辞めると決心するまで、頭の中は介護と言う言葉でいっぱいだった。個人の力だけでは出来ないと言う結論である。
日本での介護事業はそのコストに有る介護の食事や医療まで幅広く、試算すると一人の方が死ぬまで、まあ満足する金額は1ヶ月45万円で有る。それは当時介護保険が無い時代、しかし年金リッチで有ったが、その不足分をどう埋めるかが、鍵であった。私の考えは信託銀行と組み、その信託資産の金利で介護を行い、家族には信託資産が行くので、家族も本人もハッピーと言う計画で有った。当時はまだ預け入れ金利が5.5%で有った。勿論経費側で有る人件費、当時は高かったので賞与込みで月40万円で試算していた。しかし、更に介護の効率化を図るシステム化が必要で、電子手帳でのデータを如何に現場に落とし込めるか、少人数での自動化は必要である。医療看護介護の世界では効率化と言う言葉はタブーであり、例のコムスンの折口さんはそれで潰された時代で有る。そこに頭を捻っていたが、バブル崩壊の予震である金利低下が始まり、あっという間に金利が2.2%まで下がり、今後更に下がる事を確信した私は信託銀行と話合い、計画中止で工事もストップした。介護施設の為に買った土地は、経済を理解しない不動産業者が金利が下がった事で即買取ってくれた。
まあそれから海外を周り、海外での介護事業を模索して、最終的に中国のハワイ三亜とマニラに選択したが、中国やアジアでは不動産を自分名義に出来ないがフィリピンだけは40%許されているので、40%有れば自分の金が守れると言う事で、マニラに決定し、1986年に移住を始めた。
介護施設と簡単に言うが、日本人なら日本食が必要となり、物資の補給や人材教育、日本のテレビ、日本の医療機関との提携、まあやる事には事欠かないビジネスである。当時のフィリピンでは親を施設に預けるとは不届きなと言うイメージで保健省も申請したらポカンとしていた。まあそんな中、最初に手をつけたのが、人材派遣会社で設立して、日本人家庭へのメイド派遣とドライバー派遣をスタートした。日本人の食事やその他に慣れて貰う事への検証実証を試す為で有る。次に当時猛烈な勢いで進出して来た日本企業に物資の調達と配送を始めた。キャポやデビソリアの業者と交渉して、毎日、マニラとカビテ、ラグーナに進出して来た工場を行き交っていた。当時はフィリピンにA4サイズの紙が無く、特別に裁断して貰っていた。その内ユニフォームの注文で、小さな縫製工場を持ち、社員食堂をやってくれとの注文でやったりで、当時は4箇所の社員食堂をやっていたし、工場で廃棄処分したいものを、今度はデビソリアの華僑に売ったりで忙しかったし良い経験を積まして貰った。そしてマカチィに1991年に片手間副業の日本食レストランをオープンした。
まあフィリピンは電力不足で1日8時間程度停電していたが、それが解消されて来たこともあり、派生ビジネスに休止符を打ち、施設に専念し始めて、当初は都市型ホームで病院併設を考えていて、オルチィガス、サンミゲル本社横に出物のビル用地を購入した。構想やプランを考えているうちに、土地の価格が高騰して、買値の3倍でオファーが有り、売却、郊外型介護施設を目指して、現在の場所を選び、建設をスタートした。
器は金を出せば建つが、仕組み作りに大いなる時間がかかった。まずは日本食だが、既に日本食レストランをしていたので、これは簡単。次にパートナー医師を見つけて、うちの施設のかなり広い場所を無料で貸す事を条件に、病院の一つ下のランクになるポーリークリニックを設置、パートナー医師はの住居も提供して、医療の24時間体制を確立。この医師はUST出で、最高の医師と看護婦を生み出すフィリピン最高峰なので、看護婦も揃った。レントゲンを含む医療機器を購入して、歯科台も設置して、歯科医師と契約。 介護人は実は1998年までは、フィリピンから介護人は簡単に送れた。故に、USTの優秀な看護婦を介護人として日本の特養に送っていた。優秀な看護婦が介護人として働くので、特養から驚きと感謝の声が大きかった。言葉は1〜2ヶ月で業務に支障無く話せる様になった。こちらとしては、彼女達が日本から帰って来たら使えば良いと思っていた。まあ耳の早い、日本医師会、看護協会は自分達の特権が奪われると必死に潰しにかかり、この簡単な仕組みは1998年で閉ざされたので、仕方無く、TESDAの介護学校を立上げたのであった。緊急事態の場合、当時は救急車が無かったので、ヨーロッパ製救急車を購入、庭にはヘリポートも作った。またこれも縄張り意識の高い医師会によって有名無実化された、遠隔診療システムも導入したが、医師会に入らない医師との契約となった。またセブは入らないが、マニラまでは届く、日本の衛星放送を3mのパラホラアンテナをつけて各部屋に配信した。プール内リハビリも流行って来たので、車椅子で入れるプールを設置。日本の図書館を設置した。やる事が絶えない介護事業である。そしてマーケティングだが、助かったのは、アエラでの紹介からNHK特番、新聞の記事、4度の一面トップ記事等で順調にスタートして、フィリピン政府も重い腰をあげてのキャンペーンとなって行った。ここから参照 https://www.munetomo.club/posts/22191876 しかし、私は2012年、フィリピンの医療高、物価高、治安の悪化を察して、新規募集はせずに、満室の高齢者の自然減を待ち、10名になった4年前に介護事業を撤退して、今のトレーニングセンターへ移行している。しかし現在でも6名方が残っている。この方達の面倒は見ている。

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