渋沢栄一氏に学ぶ・フィリピン日本人ビジネスマン協同組合。

事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。

渋沢栄一の言葉である。第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」ともいわれる。渋沢は実業界の中でも最も社会活動に熱心で、東京市からの要請で養育院の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社、癩予防協会の設立などに携わり財団法人聖路加国際病院初代理事長、財団法人滝乃川学園初代理事長、YMCA環太平洋連絡会議の日本側議長などもした。当時は実学教育に関する意識が薄く、実業教育が行われていなかったが、渋沢は教育にも力を入れ森有礼と共に商法講習所(現一橋大学)、大倉喜八郎と大倉商業学校(現東京経済大学)の設立に協力したほか、二松學舍(現二松學舍大学)の第3代舎長に就任した。学校法人国士舘(創立者・柴田徳次郎)の設立・経営に携わり、井上馨に乞われ同志社大学(創立者・新島襄)への寄付金の取り纏めに関わった。また、男尊女卑の影響が残っていた女子の教育の必要性を考え、伊藤博文、勝海舟らと共に女子教育奨励会を設立、日本女子大学校・東京女学館の設立に携わった。渋沢が三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の明治の財閥創始者と大きく異なる点は、「渋沢財閥」を作らなかったことにある。「私利を追わず公益を図る」との考えを、生涯に亘って貫き通し、後継者の敬三にもこれを固く戒めた。(ウイキペデアから抜粋)

戦前はフィリピンの日本人社会は華僑にも劣らない存在であった。戦後敗戦によりすべてを失った日本人社会。マルコス時代 政界癒着で伸ばしてきた丸紅やその他財閥がフィリピンで活躍していたが、マルコス後にアメリカ華僑やその他が台頭し現在がある。渋沢栄一氏は今ある大企業 東京ガスやその他運輸、保険までも係わっている。いわば「呼び水」役を一気に引き受けていた人物である。おしえ彼はそれを系列化して財閥に成ろうとはしなかった。三菱やその他の財閥の創始者である岩崎家、三井家、住友家がその財閥を今では管理できない事も予想していた。

フィリピン日本人ビジネスマン協同組合は「呼び水」役を適切に行い。渋沢栄一氏の言われる「余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。」を貫きたい。

munetomo.club 棟朝淳州

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