今のラーメン・ブームを作った「タンポポ」。私と同じで湯河原を愛した伊丹十三。

1986年のこの映画。まだ皆若い。私がフィリピンに来た年。前にも話したが、私は大学生時代にビジネスを始め、毎月100万円近く稼いでいたが、これは私の当時の憧れに対する裏腹の行為だったのかも知れない。実は私も俳優に成りたく、そして将来は脚本家に成りたかった。まあしかし売れない俳優では金にならない。大学4年で4回新宿厚生年金の舞台にもたった。片やビジネス、しかし夜の顔は俳優気取り、俳優志願のアルバイトは舞台裏の雑用。新宿コマで谷ナオミのSMストリップの照明係やその他。当時はこのストリップの合間に出てきていたのは、漫才ブームを起こした「コント55号」だった。劇団 「文学座」その他の人との交わり、今考えてもウキウキする。まあこうした経験が後のビジネス・アイデアにも成ったのかも知れない。例えばお客様を喜ばして、物を買ってもらうのが商売だが、どう指向性を変えるかだが、洋服を売るのに、洋服を一切陳列しない店を作った。これは後に大ヒットと成った。ファッション・モデル事務所からモデルを呼んで、例えお客様が一人でもファッションショーを行い、モデルのアドバイスもあり、気に入った商品を買ってもらう。店員は要らない。モデルが対応、しかし素敵な音楽、素敵な照明で行われるファッションショーにお茶やケーキを振る舞う。このコンセプトが流行り、各地のデパートや商店で行い売上を伸ばした。

話は戻るが、1986年の2年前、こうしたビジネスは、少子高齢化でダメになる。女性は50歳を超えると、急に購買欲がなくなる。と思いたち、それまでやっていたビジネス全てを辞めていた。辞めた時、他の同業者の連中は「お前は馬鹿だ、これからだ」と言っていた連中は、その後殆どが倒産した。当時私は湯河原に老人ホームの建築に入っていた。伊丹十三さんは湯河原に当時住んでいた。お目にかかった事は無いが、よく彼の家の前は通っていた。日本のバブル崩壊の前兆が1985年に起こっていた。金利の下落。これによって私の建築は途中でストップし、一部を残して売却した。伊丹十三さんは当時この「タンポポ」を作っていたのなこと思うと面白い。1986年この老人ホーム建築をするためにマニラ仁渡った。もの作りは何でも情熱だ。

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